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東彼杵町

二十六聖人乗船場跡

慶長元年(1597)に捕らえられた26人のキリスト教信者が見せしめとして京都大阪から長崎まで歩かされ、その最後の地、長崎に着く前日、手を縛られたまま彼杵から船に乗り、最後の地、長崎へ向かった場所です。

歴史公園 彼杵の荘

東彼杵町は弥生時代から古墳時代にかけて長崎街道の宿場町として栄え、経済・流通の重要な場所でした。そのため数多くの史跡や文化財が残存し、なかでも「ひさご塚古墳」は歴史的価値の高い史跡。 農業の町・彼杵の生活様式を再現した「歴史公園彼杵の荘」には、ひさご塚古墳のほか、歴史民族資料館や明治の民家、体験工房の施設があります。資料館には資料的価値の高い展示品が長崎県北部の考古・民俗・歴史を学ぶにはうってつけの場所です。

ひさご塚古墳 (歴史公園 彼杵の荘内)

ひさご塚古墳では遺体を納めるための石室が後円部に2基発見されました。

=1号石室=
石室の内側には赤い顔料が塗られ、鉄ぞく(矢じり)ガラス製小玉、勾玉などが発見されました。(歴史民俗資料館に展示中)造られた時期は、5世紀前半から中頃と考えられます。

=2号石室=
 1号石室の東隣につくられていました。遺体を納める主室部分と入口部分に分かれていて、石棺系横口式石室の一種と考えられます。 2号石室は、1号石室より少し後の5世紀中頃以降に造られたと考えられます。
川棚町

魚雷発射試験場跡

太平洋戦争中、小串に置かれた海軍特攻隊の訓練に励み遠く南海の果てに散った隊員を顕彰する鎮魂の碑。(特攻殉国の碑)昭和42年、南海の激戦地コレヒドールと沖縄の石を使って建立された石碑には大勢の名前が刻まれています。またこの近くには魚雷艇訓練所跡があり、ここでは多くの若者が訓練を重ねました。他にも魚雷発射試験場跡などがあり、川棚に残る戦争の歴史を語り続けてくれる場所です。

長崎県指定文化財のキリシタン墓碑

-史跡- (長崎県指定文化財)
明暦3年(1657)、大村藩は郡崩(郡中心の約600名の隠れキリシタン摘発事件)のあと、領内のキリシタン墓を徹底的に破却させたが、これは偶然その難を免れたもの。明和8年(1622)に死亡した富永二介の妻の墓で高さ76センチの自然石に和洋折衷の碑銘があるのは全国的にも珍しい。

郷土資料館

川棚町公会堂のすぐ側にあり、古文書・書籍・教科書・鎧・籠・民具・農具・漁具・模型・写真パネルなど、貴重な資料が数多く展示されています。
波佐見町

皿山人形浄瑠璃(8月21日)

今から250年ほど前の享保18年、当時全国的な飢饉であったとき、義太夫を学んだ人達がグループを作り、平戸・西彼・五島などを巡業して、飢餓寸前の郷民を救ったのが起源とされています。義理人情をうたい込んだ義太夫の伝統は、今日まで郷民に受け継がれており、毎年、皿山大神宮にて奉納公演が行われています。皿山人形浄瑠璃は大阪の文楽と同様三人遣いで、現在60体の人形を保有しています。

コンプラ瓶

コンプラの語源『conprador』は、ポルトガル語で『仲買人』という意味です。幕末のころに波佐見の諸窯で大量に生産され、オランダ東インド会社を通じて海外に輸出されました。主に醤油が詰められていましたが、なかには酒を詰めたものもあります。そのどっしりとした形はヨーロッパ人の注文によるものと思われ、今もヨーロッパの古道具屋で目にすることがあるそうです。コンプラ瓶の生産は、大正まで続けられました。詳しくは『波佐見陶史』に古老の話として記されています。

畑ノ原窯跡

1600年前半に築窯され、波佐見町最古の窯跡のひとつとされています。階段状の登り窯、焼き損じの皿などを発掘当時のままの状態で展示しており、密かな観光名所として人気です。昭和56年に発掘調査が行われ、窯の部屋数約24室、全長約55.4mを測り、当時としては巨大な規模を持つ窯であったことが判明しています。畑ノ原窯跡は、波佐見における磁器の誕生、さらには、国内磁器生産開始期の様相を知るうえで、非常に重要な窯であるといえるのです。そして2000年9月6日に、国の指定史跡となりました。

旧波佐見町立中央小学校講堂兼公会堂

旧波佐見町立中央小学校講堂兼公会堂(以下、本建物)は、波佐見尋常高等小学校の講堂兼公会堂として昭和12年(1937)に建築された大型の木造洋館である。設計者は、波佐見周辺で活躍した清水玄治である。昭和31年の町村合併による現在の波佐見町の誕生により、当校は波佐見中央小学校となり、本建物も講堂兼公会堂として引き継がれた。平成7年、波佐見中央小学校が移転新築後、旧小学校敷地には本建物だけが残ることとなった。 外観は風格のある玄関部が特徴である。2段の屋根の下に装飾的な柱をもつ玄関ポーチは、洋風でありながら威圧的ではなく、親しみのある優れた設計となっている。また、内部は、吹き抜けの中央部と両側の低い天井部及び列柱が、教会堂を思わせる落ち着いた雰囲気を醸し出している。 本建物は、音響効果に優れていることも特徴で、場所によって天井の材質を変えるなど講堂兼公会堂という建物の性格に配慮した設計がなされている。近年の科学的な音響調査でも、優れた音響特性が実証されており、ホールとしての優秀性が証明されている。 昭和前期の大型木造洋館が残されている例は少なく、これほど大型の建物は、長崎県内のみならず九州においても他に例がない。昭和前期の大型木造洋館として貴重であり、登録基準の「国土の歴史的景観に寄与しているもの」に該当する。

村木郷「三領石」

寛保2年(1742)に設置された、佐賀領・大村領・平戸領の三藩領境を示す石碑。高さ2.15m、幅30cmを測り、3面にそれぞれの領域が刻まれている。各藩の皿山をかかえるこの地域では,農業用地の争いに加えて焼き物用の薪を確保するために藩境をめぐって,争いがたびたび起こりました。そこで,三藩の話し合いによって,この石碑が建てられたいうことです。

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